創立者紹介
日本のセメント王と呼ばれた男
嘉永 元年(1848年)3月10日
富山県氷見郡薮田村に 医師・浅野泰順の長男として生れる。幼名泰治郎。後に總一郎と改名。
嘉永 6年(1853年)(6歳)
富山県氷見郡氷見町の医師・宮崎南禎の養子となる。
文久 元年(1861年)(14歳)
考えるところあって養家より離縁し浅野に復帰する。
文久 2年(1862年)(15歳)
母親を説得し資本を出させ編機を始める。
文久 3年(1863年)(16歳)
醤油醸造を営む。
元治 元年(1864年)(17歳)
稲扱仕入れのため永見針を行商しながら陸路を 単身京都へ赴く。
慶応 2年(1866年)(19歳)
2月、近村の大野村豪農・鎌仲惣右衛門長女の 婿養子となり、
泰治郎を惣一郎と改名。
慶応 3年(1867年)(20歳)
産物会社を創立し業務担当者となる。柏崎と新潟に 事務所を設け、裏日本一帯に産物を商い、
その名ようやく顕れる。
明治 元年(1868年)(21歳)
積極行動に因を発し、産物会社破綻。鎌仲家より離縁となる。
明治 3年(1870年)(23歳)
実家の薮田村近郷各村へ農業の副業として蓆機を宣言。永見町に浅野商店の看板を掲げ産物会社の再拳を計る。
明治 4年(1871年)(24歳)
能州の有名な金貸お熊より無担保にて金3百両を借入。
5月5日夜、事業に失敗して故郷を脱走。同月19日、初めて東京に入る。
夏、万世橋際および御茶の水の路傍にて冷水を売る。
秋、横浜の醤油および味噌商・小倉屋に奉公。
冬、独立して横浜でたけのかわ商を始める。
明治 5年(1872年)(25歳)
栃木県人鈴木長右衛門の次女サクと結婚。
明治 6年(1873年)(26歳)
横浜住吉町に大塚屋・大熊良三の仮名に隠れて 薪炭商を営み、石炭販売を兼業する。
明治 7年(1874年)(27歳)
石炭商専業となる。7月強盗に襲われる。
明治 8年(1875年)(28歳)
2月近火に類焼し無一物となる。横浜寿町に再建を図る。
明治 9年(1876年)(29歳)
横浜瓦斯局よりコ−クスの払下げを受け奇利を博する。
明治 10年(1877年)(30歳)
西南戦争のため全国の汽船は御用船に微発され、 九州・横浜間の輸送が杜絶したために石炭の価格は暴騰し、一挙に巨利を収める。
明治 12年(1879年)(32歳)
横浜の市中63カ所に公衆便所を建設する。
明治 16年(1883年)(36歳)
4月渋沢栄一らの助力を得て深川の セメント工場の払下げを受ける。
品川弥太郎、榎本武揚らの後援を得て益田孝、 渋沢喜作と協力し、協同運送会社を創立する。
盤城炭礦社を創立する。
明治 18年(1885年)(38歳)
10月、協同運輸を岩崎汽船部に合併し、 日本郵船会社となる。
明治 20年(1887年)(40歳)
2月、大日本人造肥料会社の創立に参与する。
3月、大倉喜八郎、渋沢栄一と図り 東京製鋼会社を創立する。
明治 21年(1888年)(41歳)
渋沢栄一と共に平・上野間鉄道布設を企てる。札幌麦酒会社の創立に参与する。
明治 23年(1890年)(43歳)
6月、帝国ホテルの創立に参与する。
明治 26年(1893年)(46歳)
12月、盤城炭礦社を株式組織とし、 盤城炭礦株式会社と改称する。
名前も總一郎と改名。
明治 29年(1896年)(49歳)
7月、東洋汽船会社を創立、新船注文のため渡米。
明治 37年(1904年)(57歳)
日露戦争開戦のため東洋汽船の所有船三隻、御用船に微発される。
鶴見海岸埋立計画の承認申請を 神奈川県庁に提出する。
明治 40年(1907年)(60歳)
安田善治郎と協り、東京湾築港を計画し、東京府へ認可を申請する。
明治 41年(1908年)(61歳)
鶴見海岸150万坪の埋立計画を企てる。
大正 元年(1912年)(65歳)
8月、沖電気会社の設立成る。
大正 2年(1913年)(66歳)
鶴見埋立組合成り、2月、工事に着手する。 同月、セメント工場を株式組織に改め浅野セメント会社と改称する。
大正 5年(1916年)(69歳)
4月、浅野造船所を創立する。 5月、日本昼夜銀行を創立する。
大正 7年(1918年)(71歳)
4月、浅野物産を創立する。
5月、浅野昼夜銀行と改称する。日本鋳造会社を創立する。
大正 8年(1919年)(72歳)
10月、水電界の有力者と協り、各水電会社の 送電統一を計ろうとの大抱負をもって、 東京電力会社創立の計画を企てる。
大正 9年(1920年)(73歳)
1月、浅野綜合中学校を創立す。
大正 11年(1922年)(75歳)
8月、浅野昼夜銀行を安田家に譲渡する。浅野セメント会社の拡張工事を行なう。
大正 12年(1923年)(76歳)
関東大震災救護金100万円を公共に寄付する。
大正 13年(1924年)(77歳)
5月、約25万人の寄付金より、浅野綜合中学校校庭の 一角に、身長1丈6尺(4.8メ−トル)・ 台座20尺(6メ−トル)の寿像成り、除幕式を拳行する。
11月、郷里の薮田小学校入口に寿像成り、 除幕式を拳行する。
大正 14年(1925年)(78歳)
関東大震災の惨状に混凝士技術者の必要性を痛感し、 横浜市の依託により、 5月1日混凝士工法講習所を開設。(浅野工学専門学校の前身)
昭和 4年(1929年)(82歳)
横浜市依託の混凝士工法講習所の評価を得、 3月26日混凝士専修学校創立。
(現在の浅野工学専門学校)
昭和 5年(1930年)(83歳)
高齢をものともせず約3ヶ月の欧米視察の旅を終えて8月帰朝。
横浜埠頭の歓迎の群衆ににこやかに帽子を振った翁の、 この秋の長逝を誰が予想しえたか。
11月9日長逝。













